暑い
汗がだらだらとだらしなく流れていくのを感じながら、いつも通りの道を歩く。
しばらく外に立っているだけで人が倒れる暑さ。日光が肌にバチバチあたって痛い。少し先はふつふつと空気がわくようにして揺れていて、くらくらしてくる。
四六時中聴いている音楽も聴いていられない。1万円札を何枚も出して買ったヘッドホンも、暑くて外してしまう。
けたたましいセミの鳴き声で鼓膜が揺れ、音楽のない街並みは久しぶりかも、と思った。
久しぶりに五感がむき出しなぼくに対して、毎日のように見ていたはずの街並みはぐんぐんと迫って、襲ってくる。
「わからない」と思う。
街を歩く人がみなこの気温に適した服を着ていること、それなりに高さがそろった家々、コンクリートの色や硬さ、目に飛び込んでくるものすべてがわからない。
脳内に駆け巡るそれが膨大すぎて、ぼくを飲み込んでしまいそうで、ぐるりんっと慌てて目を背ける。
ぼくは再びヘッドホンを装着する。爆音はそれらを吹き飛ばしてくれた。
学校で教えてくれるものにはほとんどすべて決まった答えがあって、そこからはみ出たものにはひどく赤く冷たいペケつけられた。
あの場所ではすべての事柄が確定していたように思う。それが当たり前で、「答えはないからね」といわれた国語や道徳や美術にだって答えはあった。
ぼくはその正解をあてることがどうやら得意で、それらしいことを言うのがうまくて、先生は困ったらぼくを指名した。
決められた答えをひたすらに書き続ける一問一答はもはや快感だった。
それなのにこの世は、いや少なくともぼくが触れてきた世界は、どうやらほとんどすべてがグラグラしていてグニャグニャしている。
いやだなぁと思う。
決まりきった、と思っていた世界が、実はグニャグニャだと言うことを知ったのは、哲学と出会ったときだと思う。
哲学と聞いて、みんなは何を思うだろう。
小難しいとか、答えのない問いを考え続けるとか、そういうものだろうか。
好きだろうか、はたまた苦手だと思うだろうか。
ぼくはいつの間にか哲学するのが好きになっていた。答えはないと言われている問いについて躍起になって考えた。
夜な夜な友達と話して、わかったような気になって迎える朝が好きだった。答えがあると思っていたのかもしれない、グニャグニャしている世界を固めたかったのかもしれない。
そしていつの日か、哲学するのが怖く感じるときが多くなった。
「哲学対話」に出会ってからだろう。
「哲学対話」を、どれくらいの人が知っているだろうか。
ぼくには好きな文章を書く人がいて、その人はどうやら哲学者で、どうやら哲学対話を色々な場所でしているらしかった。
そうして哲学対話に出会った。
哲学対話が何かは、うまくいえない。でもひとつの問いについて、みんなで「対話」する。
「ルールってなに?」とか「どうして占いが気になっちゃうの?」とか「生きてるってなに?」とか。ああでもない、こうでもない、といいながら、みんなで深く潜って思考する。時間が来るとパッとやめる。答えを決める討論会でもないし、誰の意見が正しいかを競うディベートでも無い、楽しいお喋りでも、多分ない。
哲学対話ではまず問いがみんなの前に置かれる。するとその問いが持つ前提みたいなものをみんなのポツポツとした言葉でボコボコにして、ばらばらに崩していく感覚がある。
ぼくらはバラバラになったその破片を、裏も表も上も下も構わず、足りないところは自分たちで補い、作り直す。世界を再認識していく。
ぼくはこれが結構好きだ。世界が変わって見えるから。
でもたまに、その亀裂が自分にまで及んでしまうときがある。バラバラと音を立てながら足元が崩れ、自分も崩れてしまうのではないかと怖くなる。当たり前だと思っていたことが壊れていくのは怖い。
分からないことが自分にまで及ぶことは、世界と自分との境界を曖昧にさせる。自分が流れ出てしまったり、世界が流れ込んでしまったりする。
いつもの街並みが自分の中に問いとして流れ込み、ヘッドホンを外してまともに街を歩けない、なんてことが起こる。
ある哲学対話の授業中、突然「対話したい?哲学対話したい?」と、問われた。ばくんと心臓がひと跳ねする。
「したい」と思っていることに、やましさみたいなものを感じる。ほんとうにしたいの?ほんとうに?ほんとうに?じゃあなんで?どうして?と何度も問い直してしまう。
いつも思う。ぼくはそれらしいことを言うのがうまいな、と。先生のほしいところにパスを出すのがうまい、そしてそれが癖になっていて、それに喜びを感じることがある。
「わからない」と困って立てたはずの問いも、いざ対話が始まると答えを持っていたかのようにペラペラと話し出す自分がいる。そしてその言葉に、まわりは深くうなずき、「ああなるほど」と場に、人に、浸透していくのを感じる。
あぁまただ、それらしいことをいうのがうまいな。なんて空虚な言葉。
ぼくはほんとうにそんなこと考えていたのかな、ぼくのほんとうの気持ちってなんだろうな。思考に音を足した瞬間、信じられないほど白々しくなっていくその自分の言葉が、「いいことを言おう」としている自分な気がして、それはエゴの塊でしかない気がして、すごくいやになるのだと思う。
夜な夜な話すのが好きだったあの頃のぼくは、それらしいことを言って共感されたかっただけだったのではないか。だから怖いとか、世界との境界が曖昧になって疲れたりだとか、そういうことなく、調子よく話していられたのではないだろうか。
その対話の態度を、少なくともぼくは嫌だと思う。あまりにも自分勝手だ。「対話」になってない。
どんな対話がしたいかと問われたとき「人を大切にする対話がしたい。」と、ある人が言った。ぼくはそれが、その感性が、すごく羨ましくって仕方なかった。
ぼくは対話がしたいとさんざん思ってきた。したいと思っているものだと思っていた。ここには書ききれない多くの理由が、ぼくには対話が必要だと言っている気がしていた。ただそれは自分勝手に発言する場が欲しかったのではと思えてしかたない。その人の言葉を聞いた瞬間、ぼくの中の「対話」はグニャグニャと姿を溶かしてしまった。
「人を大切にするための対話」をぼくはできるだろうか。したいと心から思えるのだろうか。
そして問いたい。いったい「対話」とは何で、「対話」に誠実とはどんな姿なのか。ぼくにはまだよくわからない。