今年の夏も甲子園が終わった。
わたしはクーラーの効いた部屋でそれを見ていた。真夏のグラウンドはギラギラとしていて、びたりと焼けた肌をはう汗は遠く離れた東京のわたしの家まで緊張を運ぶ。最後の1アウトまで祈るような気持ちだ。知り合いがいるわけでもない。それでももうずいぶん年下になった球児たちを祈るように見ている。最後の一球がバシンとグローブに叩きつけられる。わたしは思わず息を漏らす。「おわった…」と心がつぶやく。どこか他人行儀なサイレンがごうごうと鳴り響き、みんなぼうっと彼らのことを眺め続けている。彼らの夏が終わる。彼らの長い目標が終わる。彼らの日々の、一挙手一投足の目的が終わる。それは優勝した1校以外すべて〈敗北〉で終わる。これはすごいことだ。彼らはこれから次の足をどんな気持ちで置いていくのだろうか。
2019年、高校3年の5月。わたしにとっての最後の1アウトは全く予想しない形で、あまりにも唐突に訪れた。その日もわたしは稽古にいく準備をして、直前に迫った舞台のことをぼんやりと考えながらスタジオに向かう車に乗った。その車中で最後の1アウトは訪れた。それはまるでdeleteひとつでパツンと真っ白になる画面のようだった。なぜかある気がしていた試合終了のサイレンも、それを眺める人々も、これまでをたたえ合う同志も、そこにはなかった。
わたしの人生はその日を境に大きく2つに分かれている。
17歳。次の日からどのように過ごしたのだろう。そのころのことはほとんど覚えていない。覚えているのは湿度に浸った自室のベットと、満足に酸素を吸うことのできない胸の重たさだけだ。発される言葉はすべてモノクロで意味を失っていて、抜け殻になった身体をただベットに転がしていた。自分への嫌悪感と鈍くえぐるような喪失感は日に日に増し、からっぽの身体を黒く埋めていった。
〈喪失〉はひとびとの大きなテーマらしい。それを本や映画に触れるようになって知った。どうにもできなかった過去をただぼんやりと眺めるような『aftersun』。身近な日々を愛でることで喪失を散らす『PERFECTDAYS』。次々に起こる破壊的な喪失が人に自死をもたらす『ペパーミントキャンディ』。いろいろな喪失の結果。それらがわたしに〈喪失〉の2文字が大きく横たわっていることを教えた。
これまで出会った、そしてこれから出会うであろうあなたに聞いてほしい。わたしは今、ときに叫び、ちぎれそうになりながら、〈喪失と回復の人生〉を歩んでいる。つまりそれはわたしの対話実践の理由ということにもなる。想いを叫ぶことは恥ずかしい。それでも止めることができずにここで叫び続けているのは、わたし1人の問題ではないからだ。
〈喪失〉について考えている人はたくさんいる。「アスリートのセカンドキャリア形成」にまつわる問題も、喪失に関する社会問題だ。20代という早い時期の引退、社会経験の不足、同領域内のポストの不足、行き場のないトップアスリートとしてのプライド。長い間失意の中を生きる人は少なくない。厳しい競争の世界。こぼれ落ちる人たち。負けたものの声は「負け犬の遠吠え」として意味を持たず、誰も見向きもしない。彼らはアスリートというストイック性から「負けた自分の言うことなど何の意味ももたない」と自らを打つことすらしうる。
もちろん喪失はアスリートのものだけではない。最愛の人を失う。信じているものが信じられなくなる。失うことはどうしていつもこんなに苦しいのだろう。もう立ち上がれないのではないかと思う。死の方が近くにある気がするときすらある。
喪失は言葉を奪う。未来を奪う。過去を奪う。いまも奪うかもしれない。それでもわたしたちは生きている限り喪失から逃れられない。
それまでの目的や肩書きを失ったとき、わたしたちは問いに襲われる。“アイデンティティクライシス”。わたしは一体何者なのか。何のために生きているのか。わたしの今までは一体なんだったのか。どこから間違えたのか。誰のせいなのか。すべて無駄だったのではないか。そこにあるのは問いばかりだ。問いに喰われる。次から次へと重く大きな問いに襲われ、それはまるで格上相手とのボクシングのようで、応答の余地がない。
ずるずると大学に進学した当時のわたしも、到底さばききれない数々の問いに襲われていた。それらは夜になるとさらに恐ろしい顔をしてやってきて、命などかんたんに吹き飛んでしまいそうだった。もちろん応答する余裕などない。たまに声を発してみるけれど、そのすべてが「負け犬の遠吠え」に思われ、何より自分自身が受け入れることができなかった。
外に出てみても同級生の顔が眩しくて見ることができない。なにかにイラついていて、そんなすべての騒音をかき消すかのように堕落していった。ろくに授業も出ず、覚えたての酒と爆音のライブハウスに身を浸す日々。そうやって自ら自分の声を奪うこともしていた。模範的なドロップアウト!とにかくわたしの言葉はこの世に存在していなかったし、それはわたしの存在の否定にも思えた。
わたしが対話に出会ったのはそんな日々の中だ。
対話の場だけがわたしの問いに応答した。はじめてのことだったし衝撃的だった。それはQ&Aのように綺麗な問いと答えという形に限らなかった。問いを問いのまま受け取られることだったり、「答えがない」という破壊的な絶句であったり、ほんとうにさまざまな形の応答を受け取った。その場でのわたしの声は「負け犬の遠吠え」ではなかったし、それは存在の肯定でもあった。あなたは負け犬ではなく人間で、それは遠吠えではなく声である。ここにいてもいい。問いが止まらなくてもいい。自分の声がなにかわからなくてもいい。とにかくそのままの姿でその場に座っていていいのだと諭される。そんな経験が対話の場にいる限り永遠に続いた。これは“場”と“他者”という存在の力だ。わたしが変化したのではない。
さらに驚くべきことに、対話の場にポツポツと落ちる他者の言葉に、わたしは自分を見た。わたしは目を見張るようにしてこぼれ落ちていく言葉を捉える。それは耳をすませば澄ますほどたくさん拾いあつめることができた。そうだ、そうだ、とだらしなく涙を流しながらその声を必死に拾い集めた。まるで酸素のように、他者から発される自分の声を探した。もっと拾うために問いかけることもした。そういう仕方で自分の言葉を取り戻すこと、それはわたしがわたしの人生を生きるために必要なことだった。
対話実践では「自分の言葉」で話すことを重視する。はたして「自分の言葉」とはなんなのだろうか。なぜ「自分の言葉」が大切なのか。答えは案外簡単だと思う。それがあなただからだ。自分の言葉を取り戻すことは自分を取り戻すことだ。あなただけの経験があり、あなただけの心があり、あなただけの身体がある。ほかの誰でもないあなただけの人生がそこにはある。それは言葉にしてみると極めてわかりにくい。ひどく不格好で、シワだらけで、すらすらしていない中途半端なもの。対話の場はそんな言葉たちをいつまでも受け止め続ける。
しかしこれはもう散々言われているが、あなただけの言葉を表現する場はこの社会にはあまりない。学校も職場も、コミュニティというものにはある程度つるつるとした共通言語がある。それが社会でありパブリックだ。良いとか悪いとかではなく、そういうものだ。わかりやすいものが増えた。端的でインパクトのあるものが増えた。同時に強くなる「あなたらしい人生を」とうたう広告。「あなたらしさを取り戻せ!」と社会は叫ぶ。わたしも心から叫ぼう。「わたしらしく生きたい!」あなたはどうだろうか。
ここであえてわたしは対話実践者として「社会には対話が必要だ」と力強く宣言したい。〈自分の言葉を取り戻す場〉として、ツルツルとした言葉が飛び交う社会の片隅に、対話の場を設けていたい。それはつまり、わたしがわたしとして、あなたがあなたとして生きていく場を作るということだから。あなたらしさはほかの誰にも奪わせてはいけない。わたしたちは自分の人生を、他者と共に生きている。
あなただけの人生を(それはときに喪失かもしれないが)引き受けて、そのとき生まれるあなたの声に耳を澄ます。そこで産声を上げる言葉はあなただけのものだ。あなたにしか表せない、あなたの表現。それを生み出す営みはときに困難を極める。ひとりでは不可能なことがほとんどだ。でも世界には他者がいて、場がある。絶え間のない暴力のような問いの隙間から、誰かが応答する。あなたも誰かの問いに応答することができる。その応答のなかで広がる景色がある。あなたは噴火する。対話はその瞬間を待っている。
あなたがあなたの表現をすること。あなたが他者と応答し合うこと。それはほかの誰でもないあなたがこの世界で生きているという痕跡だ。「生きている」。あなたが今ここで「生きている」。あなたの声を、言葉を、身体を、生を、取り戻す。対話にはそれができる。
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対話実践をはじめて5年が経った。大した年月ではないけれど、いまも対話がわたしの人生からなくならずにむしろ加速している事実は、わたしのやるべきことがここにあると訴えているようだ。
この夏、智辯和歌山が激戦の末4度目の優勝をしたこの夏、「対話と表現の場」として〈応答〉が立ち上がった。ここまで息つく間もなく流されるようにやってきた対話実践だが、ここまでのすべてが、それは大きな喪失も含め、わたしをここまで連れてきてくれた。身の丈にあまるようなこの場所でわたしは〈対話と表現〉を行う。わたしの対話実践は〈喪失と回復の歩み〉だ。だからこそ共通合意のための対話ではなく、表現のための対話を続けていく。
生きれば生きるほど到底折り合いがつかない。複雑さは極まるばかりだ。失意も増していく一方かもしれない。それでも身体が続く限りわたしはわたしを辞めることができない。わたしを生きることを諦めることができない。
