触れた瞬間にフカフカと不快な食感をした中身のない個体だとすぐにわかった。それでもこの林檎は名の売れたブランドモノで、この街で最後の林檎で、あまり匂いは香らないが何より艶々とした真っ赤な皮を纏っていたから買って帰ることにした。
限りなく真っ直ぐと続く道を進み、初めの角を右、次の角を左、坂を降りた後に、ふたつ先の角を左に曲がると、たっぷりと咲く椿のような色の3階建ての家が見える。これがわたしの家だ。
ここらの地域は少なくとも3世代以上住み続けている地主が多いせいか、みなとても信仰深い。1時間ほど散歩していると大きく格式の高いであろうお寺を4つ5つ見かけることができ、それらは午前2時に通りかかっても提灯はぼうっと綺麗に灯されていたり、毎月3のつく日にはきまって屋台がでていたりと活発に機能していることがわかる。お盆やお彼岸の時期に限らず、うっすらとずっと線香の匂いがしていていて、もちろんわたしは身ひとつでこの街に住み着いたために地主ではないし、同世代よりは超次元的なものを信じてはいるものの、やはり信仰深くもないのだけれど、しかしずっと香っている線香の匂いが好きだった。
林檎はわたしの家のダイニング・テーブルの上に置かれた。このダイニング・テーブルは譲り受けたものだった。ひと目でかなり古いものだとわかるが、同時によく手入れされてきたこともわかる。それがわたしの愛着の手助けになっていた。大きさは両手を広げたより少し小さいくらいで、丁寧に切られ角がスッと立った分厚い杉の木が天板になっている。杉という材木は無垢材の段階で色がオレンジやピンクに見えることや、木目が大胆でゆったりとしていることから、パイン材やアカシヤといった他の材木とはちがう、重々しいがしかし決してわたしを取り込むことはない他人顔をしているといったような、独特の雰囲気を持つ。つまりこの狭い部屋に大きな杉の木のダイニング・テーブルを置いてしまえば、あっという間に部屋の主役になってしまうのだった。
林檎はそんなダイニング・テーブルの上に置かれ、しかしダイニング・テーブルに着地した途端、林檎はいま持っていた林檎ではなくなったような気がした。ただそういうようなことはよくあることで、まえに購入したビンテイジチェアもそうだった。そのビンテイジチェアは、部屋に置かれた瞬間、その歪な大きさと古さが際立ちはじめ、下手くそな福笑いのように、部屋ごとみるみると崩していった。しかしビンテイジチェアをすぐに手放すというのは難しく、しばらくその崩れた部屋で生活していたのだけれど、当たり前のようにその崩れた部屋はわたしの身体も崩した。
そんなことを思い出しながら林檎を眺めていると、艶々とした赤は見るたびに色を変え、絶えず魅力的に生まれ変わっていることに気がつく。その変化は決して激しくはなかったのだが、ヌルヌルとした求心力にわたしの焦点は奪われていった。赤の奥にまた新しい赤が現れ、そうかと思うと前見た赤がまた訪れ、そんなことを繰り返していくたびに、今見ているものが赤なのか、林檎なのか、それとも何か、他のもっと恐ろしい、もしくは妖しく不快ななにか、といったふうにそれは絶え間がなかった。
突然でかいメロディが耳に流れ込む。思いがけず投げ込まれた音に驚き、目の周りに力が入ったところでわたしはようやく焦点を取り戻した。するとめいっぱい堰き止めていたものが一気に流れ込むように、部屋が暗くなっていることや、息を忘れていたこと、長いあいだ何も聞こえていなかったこと、ゆるい電気が流れているように、もしくはぬめっとした液体を纏っているように鈍く、皮膚から3センチほど触覚が離れていたこと気がつく。わたしはいつの間にかわたしのすべてを手放していて、林檎の艶やかな赤色の内に存在していた。
メロディの正体は17時の町内放送だった。もう少し考えてみると「ゆうやけこやけ」だった。わたしは少しおおきく息を吸い込むことで止まっていた呼吸を再開し、林檎を眺めていた視線を切った。林檎はもう色を変えてはいなかった。おそらく長い間座っていたのだろう、身体の感覚が鈍く、うまく動かすことができない。するとまず左腕に意識を集めた。そして慎重に動かしはじめる。体の中でミシミシと音がし、左の肘、肩や脇の筋肉が動き出し、首をまわすといったころには徐々に全身が解ける感じがした。立ちあがろうと椅子を引くと、ピンと張られた部屋の空気をギュゥゥゥと重々しい音がかち割っていった。わたしの意識はより高いレベルに引き戻される。喉が渇いていた。水瓶から水を注ぎたっぷり飲む。赤く艶のある林檎がこの部屋には少し似合わない気がした。
暗いキッチンの電気をつけながら、外に出たのは今日が久しぶりだったことをぼんやりと考えた。しかし今日の外出は気まぐれでも運によるものでもなかった。家から出れないでいたこの数日の間も、今日家を出ることをわたしは知っていた。だから今朝はというと、ずっと前から決まっていたかのようにまだ日が浅くのぼる時間に目を覚まし、ひとつも無駄な工程を踏まないままに身支度を終え家を出たのだった。
わたしが目指しているであろう目的地は一度行ったことのある街だった。前回は電車に乗って向かったのだが、あまりの遠さに2度も日を跨いだ。その間にわたしは村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を全て読み終え、ねじまき鳥は何度もギイイイイと音を立てながらねじを巻き、それでも止まらない電車の中でわたしはたくさん眠った。しかし今日は歩いて向かったために家を出て30分後には目的地についていた。おそらく林檎もその時にはすでに並べられていた。この林檎に出会ったことも、それがいまこのダイニング・テーブルの上にあることも、偶然には思えなかった。
翌日、わたしはズルズルと目を覚ました。部屋はすでにうす暗くなっていて、貼っているヴェルヴェット・アンダーグラウンドのポスターも影の中だった。それは時刻のせいというよりも日当たりのせいだったのだが、どちらにせよわたしの心を暗くさせるのには十分であった。
ダイニング・テーブルの上には相変わらず林檎が置かれている。
目の奥の神経がからまっているのか、頭が重い。それは船酔いのようなぐったりとした吐き気を引き連れていて、気圧がふさわしくないことや、おそらくカーテンをあけても大して日は入らないこと、見上げても高くはない空のナマリ色を想像させる。たまらず吐き気を飲み込むように大きく息を吸い、掛け布団を蹴り上げ、新鮮な空気を送り込みながら寝返る。するとわたしの見ている世界は実際よりすこしゆっくりとしたスピードで、さらにそれは滑らかではなく、パラパラ漫画のようにわずかな残像を残しながら段階的に回っていった。身体の動きと視神経の反応にズレが起きる、いわゆる目眩という症状はときに実際に眼球を震わせたり、視界を反転させたりする。その不快感は目を閉じても継続し、暗闇すら回転させる。わたしの神経はよりいっそう複雑にからまり、吐き気とともに部屋の隅々は滑り落ちていった。
目眩がおさまるとノールックで枕の上にあるスマートフォンに手を伸ばした。起きてまず音楽を選び流すことは、その日のわたしの‘状態’を把握するのに重要なルーティンとなっていた。それはつまり、わたしはわたしの中でわたし以外のものと共存しているということで、だからわたしにはわたし以外のものの機嫌をできるだけ詳細に知っておく必要が生じているのであって、たとえばわたしがビッグ・シーフを聴いたいと思っていても実際しっくりくるのはニア・アーカイヴスだったりする。そういうことを昔は疎ましく思っていたりもしたが、ケーキを食べたい時にすきやきを出されてもただ迷惑なだけだといったふうに、気分を大切にするというのはそのものの価値を上げることにもつながると思い直してから、特段気にすることもなくなった。
スマートフォンの光が画面をはみ出して広がり、部屋はいっそう歪む。思わず目を細めながら、アップルミュージックを開く。AIに差し出されたおすすめを尻目に大きくスクロールしていった。今日のわたしはピンバッグのファーストアルバムを探し求めた。ピンバッグを知ったのは6日前で、ピンバックをはじめに流す朝はこれで6日目だった。今日も手際よく黒のジャケ写を見つけ、タップする。『トリポリ』が清潔な冷気のように部屋の床からするすると這い広がっていく。ゆるやかかつ几帳面に繰り返されるベースリフはこの部屋の歪みを少しずつ整頓していった。すべてが正しい向きやリズムに整う頃、窓際のモンステラには微光が降り、わたしはまた眠りについていた。
少し前の世界のことを思い出す。日が長い季節だった気がするが、わたしは‘L’のほうのワイヤレスイヤホンを落としたせいでこの部屋に数ヶ月帰ることができないでいた。首を大きく垂れ下げ、毎日同じ道を繰り返しピストンして歩く。もちろん失くした‘L’のほうのワイヤレスイヤホンを探すためだ。毎日同じ時間に同じ場所を歩いていたために、毎日同じ人と同じ時間に会い、視界の外、そして世界の内側では、アカゾエゼミが途切れることなく鳴いていた。アカゾエゼミは蜂のような黄色と黒の身体と常にひらかれた真っ赤な目を持っている。ビギィィィィと耳から神経に響くような声は、夏のうるさい他のセミを一度に脇役にする破壊力があった。そこにいるのが1匹なのかそれとも何匹かいるのかの判断がつかない。アカゾエゼミは毎日同じだけ、そして一定のリズムで鳴き続けた。
日が短くなってきたころ、いつものように首を大きく垂れ下げ歩いていると、ある一歩を踏みこむとき、いつもよりスローな体感を捉えごく僅かに小指のほうに傾いた重心を感じるとともにアカゾエゼミの鳴き声が一瞬歪んだように聞こえた。すると突然視界の外からギャウギャウと酷く荒々しい鳴き声が響き渡る。その大きさはアカゾエゼミのそれを大きく上回る、世界に亀裂を入れるほどの大きさで、わたしは目眩を覚えバランスを崩す。慌てて顔を上げ、瞳孔を引き締めた。ギュンと合わせた焦点が捕らえたのは向かいの道路からわたしに向かい吠える白い日本スピッツだった。そうして、‘L’のほうワイヤレスイヤホンは発見された。白い日本スピッツは、ワイヤレスイヤホンのケースよりも何段階も白かった。
再び目覚める。昼前だ。カーテンが開いていたおかげだった。ダイニング・テーブルには林檎が置かれている。ひと月も経つと林檎は水分が抜け、ひとまわり小さくなっていた。毎日地道に皺が折られていくことにわたしは気が付いていた。しかし林檎は未だに新鮮な赤色をしている。それでも時間が経過していることは誰がみても明らかだった。この赤い林檎は日を追うごとにこの部屋になってきている。誰がみてもわかるほど、この林檎はこの部屋になっているのだ。そう考えると、今すっかり食べてしまってもいいと思った。この赤い林檎を手に取り、ナイフでザクりと切り広げる想像をする。おそらくナイフを握った手は乾燥した実の感触を拾い、もちろん割れ目から果汁はひとつもでないが、それでもベタベタと汚れる手を少し不快に思うだろう。そんな想像をするわたしを目の前にして、林檎は静かだった。あの日わたしに訴えかけてきた艶々とした赤は、色を変えないまま、何かが変化していた。
次の日、珍しく友人が家を訪ねてきた。彼女はわたしがこの家に引っ越してすぐの頃に一度来たことがあった。その頃と大きく変わったレイアウトに、彼女はいちいち触れていった。林檎のことは触れられなかった。「ダイニング・テーブルは変わらないのね」と彼女は言った。わたしはこのダイニング・テーブルがいつからあるのか思い出せなかった。しばらく休んでいくというので、いつもより少し高いコーヒーをカップに注ぎソーサーに載せて出す。彼女はカップの取っ手に人差し指をかけくるりと180°回すと、すっと持ち上げ、少しだけ飲んだ。わたしはその細くやわらかい指をずっと見ていた。「最近具合はどうなの」と彼女は言う。わたしはジャック・タチの映画が良かったという話をした。話しながらジャック・タチの『ぼくの伯父さん』の大きな赤いポスターが貼られているコーヒー店のことを思い出していた。しばらくすると日が沈む前に帰りたいといい、玄関まで歩きだしたので後を追った。いつも勝手に来て勝手に帰る彼女のことが好きだった。わたしは廊下を歩く彼女の真っ白な首や肩を見ていた。その視線に気が付いたように彼女は唐突にぐるりと振り返る。目が合う。逸らすことができない。
「ねえ、あのもう腐った林檎はいつ捨てるの?」
数日後、わたしはとうとう林檎を手に取ることにした。みるみる静かに、そしてこの部屋になっていく林檎をこれ以上触れないままではいられなかった。すっかり食べてしまうほうが良いだろう。ぐしゃぐしゃに噛み、それは水分をもたないだろうからできるかぎり唾液と混ぜ、それがすべて液体になったあとに飲み込む。それが良いと思った。
この日は珍しく部屋に日が差し込んでいた。ベッドから林檎を眺めていたわたしは、掛け布団をずるりと剥ぎ、ダイニング・テーブルまで歩く。思うとこの林檎をダイニング・テーブルに置いたとき以来、触れるのは初めてだった。手に取ると再び中身がないことが手から伝わる。それでもグッと握り、反対の手でのひらで撫で回した。それでは足りなくて舌で丁寧に舐めてやった。以前よりも深く多くなった皺を感じる。艶やかな赤はもうわたしにはまったくの無関心だった。フカフカとした食感は、口内にだらしなく広がり、その薄い味の不甲斐なさはわたしに不快感を与えるだろう。それでもやはり食べてしまおう。ナイフを手に取り、薄い皮に細い切れ目を入れ、そのあとは一気にばかっと切り分け、そのスカスカの中身をこの目で見よう。おそらくわたしはそれを見て「お前ははじめから真っ赤でも林檎でもなかったんだろう!」と怒鳴りつける。ただそれさえすれば、その切り口からはみるみる果汁がわいて溢れ、再び艶々としたぷっくりと丸い林檎に戻ってくれる。それがわたしにはわかる。だからわたしは林檎を今ここで切る。そして食べる。ぐしゃぐしゃにして、唾液に混ぜて飲み込む。