「ごめん遅れて。めっちゃ良かった」
と言われながら渡されたのは1年前に貸した本!本気を出せば1日で読み終えるほどの厚みをしていた。だから良かった。1年後にその言葉と一緒に返してくれて良かった。こうやって貸したより多くが返ってくることがよくある。うん、なんか全部良かったや。
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ネイルのお姉さんに、過去は美化されてくかんね〜、と言われたけど、あまり思い当たる節は無かった。美化の対象としては元彼がよく例にでるけど、私は過去の恋人のことはあまり覚えていないから美化のしようもない。試しに、(出力をたくさんして)元彼を思い出してみても、6時間遅刻されたなとか、飲み始めて1時間でもう帰りたかったなとか、私も元彼も可哀想で申し訳なくなる記憶しか掘り返すことが出来ない。
でもまぁたしかに、ひとつやふたつ、だらしないほど必死に磨いて光らせてる過去もある気がした。
私が美化している過去って、例えばなんだろうな。やっぱりうまく思い起こせない。
まあ過去すらださすぎる感じで生きているくらいが良いと思っているのかも。汚い過去、それが誰かを傷つけた過去であったらなおさら、美化しないでいたいし。ってまあこの書き方その物が色々なものを美化しているのか。
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朝。嫌いだ〜!
クソでしかない通勤電車の中で、相変わらず芸人のコラムやエッセイをせこせことチェックする。あ、いいなこの人、と思った人の連載は必ずどこかで自身加害性について書くターンが訪れる。(しかも大概おじさんの加害性を当事者の目線から書いている、これがおもしろい)。今朝はその日だった。
加害性を語れるのは、負けたことがあるということで、想像力があるということで、良心があるということなのだった。(でもそれを全面に出しすぎると、「被害者ずらしたエッセイ書いてる」って永野に“語る系”の番組で揶揄される。)
成功して、もういらないくらいのお金を貰っていてもなお、エッセイを書く。
「エッセイを書く」。
エッセイはいつもどこか寂しそうでイライラする。俺が1番寂しいのに、悲しいのに、どっかのだれかのエッセイはそれを越える孤独を見せつけてくる。その孤独にあてられて私は「エッセイを書く」。
「エッセイを書く」ことが罪を告白することになっていて、ナナメな私の天邪鬼が加害たっぷりの「エッセイを書く」けど、エッセイが既に被害者だからダメになって終わった。
長さ出しした規格外の爪にガングロキティのパーツを乗せてるギャルのエッセイが読みたい。