朝起きて、4本の指で助骨をなぞる。
4本の指と親指で脇腹をつまむ。
洗面台まで来て、服を脱いで上裸になり、身体の薄さを確認する。
両肘を真上に突き上げ、胸も露に、めいいっぱい息を吸い込む。
臍を背中にくっつけようとする。
顔には、眠たそうな目がついている。
ズボンも適当に脱ぎ捨てると、薄ピンクのタイツにつま先をつっこむ。
かかとまで丁寧に入れ終わると、そこからはメリメリとふくらはぎ、太もも、脚のキワ、腰へとあげていく。
お尻が入ると、臍の上で、パチンとタイツが跳ねる。
次はハイレグのレオタードを、胸の上までメリメリと滑りあげる。
紐のねじれをするりとなおすように、肩をなぞる。
レオタードからはみ出たお尻か太ももか分からないふよんとした脂肪を、両手のひらをべったりとつかって、かき集め、潰す。潰す。潰す。
目は、くぐもっている。
4月、健康診断を受ける。
クラスの保健委員に167と書かれた紙を渡すと、1段高い台に乗せられ、次は46とガリガリ書かれる。
みな、紙を我が子のように抱える。
「やばい50越えそう(笑)」と、隣にいた友達に笑いかける。
何ヶ月かすると、46が52になる。
レオタード姿のまま、狭くて暗い部屋に呼び出され、入る。
大きくて引き締まった目がこちらを向いている。
その目は私の腰のあたりをなぞると、「わかってるよね」と唇が動く。
17歳だった。
勇敢に、毎日、自転車で学校に通った。
帰り道、必ず途中でカシャンと自転車を停める。
菓子パンを3.4個買って、押し込むように食べる。
自転車を走らせながら、片手で、食べる。
押し込むように食べる。
人気のない道を走り食べる。
ゴミは家以外で捨てる。
財布からお札が消える。
家に着く。
そさくさとトイレにはいると、
2本指を喉の一番奥に突き刺し、全てを元に戻す。
ふと、心にチクリと痛みが走る。
中学2年の夏を思い出していた。
きゃあきゃあ友達とじゃれ合い、なぜか鏡の奪い合いをしていたときのことだ。
誰かが「私の方が可愛いから!」と、言う。
少し遅れて、口を動かしたのは私だと気がつく。
友達はみるみる小さくなっていったように見えた。
また数カ月が過ぎ、52が54になる。
23.5センチのいつものシューズに足先をぎゅうぎゅうと詰め込み、布を引っ張りながらかかとをグルンと囲い込むと、足首にリボンを巻き付ける。
私の腰をなぞったあの大きくて引き締まった目は、もう何ヶ月もこちらを向いてすらいなかった。
もちろん唇が振るわれることもない。
かつて46だったものは68まですごい速さで変化していく。
その変化に呼応するように、学校や世間からのまなざしの色もまた、みるみると変化していった。
68が52になるときも同じように、世界はめきめきと音を立てながら色を変えた。
私はいったいどれほどの人や社会の餌食になってきただろう。
そしていったいどれほどの人や社会を踏みつけているのだろう。
あと何回、私の心は壊されるのだろう。
あといくつ人の心を殺せば、私は満足するのだろう。
毎日、鏡に自惚れる。
時々、ぶん殴りたくもなる。
街ゆく綺麗な人に目を奪われる。
Twitterには整形の話がベチベチと貼られ、そのために金を稼ぐ人たちの存在を知らせる。
「ルッキズム」という言葉が認知されても、そこから抜け出す術は誰も知らない。
私は非道な人間だ。
そう堂々と自白することで罪を軽くしようとする、非道な人間だ。
私が「46キロもあった」と無邪気に笑ったとき、
まったく思っていなかった「私の方が可愛いから」という言葉が口から滑り出たとき、
いったい彼女たちをどれだけ深く先の長い地獄へと突き落としていたのだろう。
私は食べ物を押し込んでは吐き、また食べ、吐く地獄に案内されたが、彼女たちは私にどんな地獄へ連れて行かれたのだろう。
今更気が付いたところで、できることがない。
気が付いたのだって、自分が痛い目を見てからだ。
何かが欠如していて、代わりに肥大化した自意識が横たわっている。
「人を傷つけるような人間の生活とかくそどうでもよくて死ぬ」というツイートが4.3万いいねを纏いながら回ってくる。
人を傷つけるような人間に興味がある私を、非道徳的だと慰める。
人を踏みつけ優位に立つ人のことが、わかってしまう。
さらに、そんな自分に怯えているのにもかかわらず、再三暴力的な自分を繰り返すという、到底理解されないような人間のことも理解できてしまう。
だから社会問題と向かい合うとき、私は加害性についての研究へと関心が向く。
加害性の気持ちがわかることが私に残された倫理的な道だと思っているのだと思う。
これよりも大きな正義や倫理はどうしても語ることができない。
当たり前だ。
今日も私は、大きくて狂暴で人を簡単に踏みつけ優越感に浸る暴力性を抱えている。