約4年ぶりに、身体のラインがひたひたと見える装いで、鏡の前に立った。
右手をバーにかけ、首がいちばん長く見える角度に、肩をストンと落とす。
両方のかかとを付け、足先はくるりんと90度外側に向ける。
それに誘導されるかのように、足首から股関節も外側へ旋回する。
するとすかさず下腹はだらしなく前に突き出て、腰は勢いよく反れる。
これではだめだと、下腹をえぐり取るようにただし、全身を二枚の板でプレスするようにぎゅっとあちこちに力を入れる。
「ああ身体が、だらしない」
筋肉の筋はみえないし、余計な脂肪がたっぷりとついている。
生活をしている身体だ。
有馬記念を見たあと、小田原城を散歩させられていたダルダルのお馬を見たときのことを思い出す。
競走馬と同じ生物とは思えないほどにダルダルとしていたお馬。
それでもパカパカと走っているお馬はなんとも愛おしい。なんだか有馬記念を想像しながら走っているように見えて、おかしくてさらに愛おしい。
「鏡を見たら驚くだろうな」など思いながら、今私の目の前にある鏡を見る。
現役の頃の身体との差に驚く。
理想と現実は常に乖離している。
そう、乖離している。
それは現役時代もそうだった。
24時間をバレエに費やしていたあの日々。
徹底した自己管理はすべて、夜19時からのレッスンを最善の身体で臨むために行われる。
食べ盛りと言われる17歳の日々も、私は炭水化物をほとんど食べていなかった。
学校から帰ると、軽食と、頭を冴えさせるための仮眠をとる。(コンクール前は1ヶ月全く同じものを全く同じ量食べていた)
スタジオにはレッスンの1.5時間前には入り、入念にストレッチと筋トレをする。
これが毎日のルーティンであり、毎日19時により良い身体に仕上げるために必要な作業だった。
身体が重かったり、少し眠かったりすることが極端に嫌で、ホルモンバランスによる体調の変化には悩んだような気がする。
アップのルーティンが終わると「よし」と今日もバーに手をかけ、鏡の前に立つ。
その、瞬間 。
その瞬間が、 とても重要だった。
一日で最も、神経が駆け巡る瞬間。
理性と身体が濃密に接触しようとする瞬間。
一瞬にして今日の私の身体を理解する。
今日は背中の筋肉が弱いとか、腹筋に力が入りにくいとか、右手が下がるとか、足の裏が縮こまってるとか。鏡の前できちんと立ってみるとすぐにわかった。
そうして獲得した今日の私の身体の癖を、再びストレッチや筋トレをすることで修正する。
身体は一日たりとも同じ顔をしていることはない。
どういうわけか、寝て起きると別人になっているのだ。
毎回同じクオリティを求められるバレエにとってこれは由々しき事態だった。
昨夜2時間かけてできるようになったものも、身体が違えばまるで出来なくなってしまう。
他人具合は日によってバラバラだ。
家族くらいの時もあれば、ほんとに誰ですか?と口に出してしまいそうなくらい上手く動かない時もある。それがコンクール当日だったときは最悪だ。
だから、できる限りはやくその日の私の身体を把握・修正することに努めるようになる。
そのために必要なのは、常に、真摯に、自身の身体と対話をすることだった。
これはよく聞く話だが、私も体重は体重計がなくても100グラム単位でわかるほど、当時は研ぎ澄まされていた。
どこかの記事で「バレエはほんとうに注意が必要」みたいなことを書いてあるのをみた。身体的にも精神的にも消費するものが多い、というような趣旨だった気がする。
1度どっぷりと浸かっていた者としても、バレエは一歩間違えるとかなり危険だと思う。
バレエは「究極の身体」を目指す危うさがあるのだ。
なぜバレエはそこまで究極を目指すのだろうか?
あまり問いの形が上手くないが、なんとなく、身体そのものが芸術品になるからなのではないかと思った。
バレエはスポーツでも競技でもなく“芸術”だ。
それも絵画や音楽と違い、生身の人間が対象になる。
恐らく「究極の身体」には「究極の生活」が必要になる。
私の現役時代のストイックな生活も必然だったのだ。
もちろん「究極の身体」は手に入らなかったが、“生活している身体”の今よりは遥かに極まった身体を保持していた。
しかし、それでも決して思い通りに動くことはなく、次の日もまた、私の身体は他人の顔をしてやってくる。
乖離している。
身体は私の理性や理想から「はぐれている」のだ。
むしろ身体を極めれば極めるほど、理想との距離は濃密に離れていく。
そう「究極の身体」とは、「身体のすべてが、思い通りに、描く通りに動く」状態のことを指す。
先日舞踏家の土方巽に関する文献を読んでいた際、「穴」という表現が出てきた。
そうだ「穴」だ。そこに「穴」という無限がある。
決して届かない。
しかし、その無限を進むことはできる。
昨日より思い通りに、「究極の身体」へ。
(たぶんつづく)