セツナレンサ

対話のあるせいかつ

この冬について書こう

久しぶりにツラツラと書こう。

この生活が始まったのは去年の秋で、今日3月4日13:20現在はもうすっかり暖かい空気が私を包んでいる。この時間にもかかわらず学ランを着た学生は晴れ晴れしい顔で歩く。第二ボタンまであけて一切から解放されているかように。わたしは寒い冬が嫌いだ。何回書いたかわからない。いつもどうやり過ごそうかと考えるけど今年はあっという間だった。だからこの冬について書こう。


全ての始まりは11月中旬だった。その日は突然来て、私は火星人になった。今年の秋はとても長くて、暑くて、あの日はまだ薄いアウターを着ていたことを覚えている。そんな私は急に連れ去られ、夜になる頃には火星に到着して、今もまだ火星人のままだ。

火星のQOLは最悪と思われているかもしれないが、実は最高なんだよ。そう、第二ボタンの無い学ランで長い筒をもった学生が晴れ晴れしく歩いているくらい最高だ。

最高とはいえ、火星に来てばかりの頃はかなり苦しかった。環境の変化に弱いのは人間だからだろうか?


火星にも犬は居て、よく首輪をつけて散歩しているのを見る。フワフワで、きゅるるんなおめ目で、しっぽをブンブンふって歩いている。ついつい「可愛い」と声が出るほどにかわいい。それなのに、私が目を離した隙に、犬はなぶり殺されていた。しっぽを引き抜かれることが多い。でもナイフとか、毒とか、そういうのも全然ある。毎日見かける犬のほとんどが死んでいったと思う。もうあまり覚えていない。人間の理性は立派で、はじめは変化にへこたれさえするが、しばらくすれば適応できる。だからあまり覚えていないんだと思う。しかも火星ではそれが神聖化されていて、12月の末くらいには祭りが行われていた。ライトアップされた火星で、私もケーキを食べた。美味しかった。

たださすがにはじめは辛く、特に夢遊病にしばしば苦しんだ。夜中にケラケラと笑いながら、刃物片手に街を疾走する私を見つけた知り合いが、病院に連れていってくれた。今ではすっかり良くなった。


ケーキを食べた12月末頃、私は失恋もした。私が火星に行く日、彼女はそれに気が付き、宇宙船にしがみついていた。しかし地上10mほどのところで片腕を切り落とされ呆気なくベタンと地面へ落とされてしまった。私はしばらく、その片腕を抱きながら火星で暮らしていた。その頃はまだ、私たちは通じあっていたように思う。手を握ると握り返してくれた。それなのに12月末、その片腕はサラサラと消えてしまった。いや、正確にはひと握りの砂になってしまった。3日間くらい泣いた。未だに家にある砂のザラザラした感覚を確かめる。なんの砂だったか分からなくなるときがたまにある。


毎年なのかはわからないが、この冬の火星はよく雪が降った。その度に雪かきをするのが大変だった。ただそのおかげか体重が3.4キロ減った。冬の嫌なところに太ることがある私としては、これはかなり嬉しいことだ。(暖かくなって雪が降らなくなった今、見事に戻った。)

 

色々と話したが、火星に来て1番変わったことはやはり眼鏡を変えたことだ。いや、正確には新しい眼鏡を与えられたことだ。あれから毎日、私の自宅のポストには新しい眼鏡が届けられる。たまに手袋や靴も入れられている。私はこの送り主を知っている。

その眼鏡をかけて外に出ると、ずうっと遠くまでよく見えた。街がみな決まりきった顔で、しかし穏やかに、並んでいる。それがずっとずうっと遠くまで見える。こんなことは初めてだった。そしてそれが嬉しかった。いつも近くの家すら触れるまでどんな姿かたちをしているか分からなかったから。

よく見えるようになってからは、色んなところに行くようになった。火星のなかをたくさんあるき、私の中の地図を拡張していく。それが楽しくて、そして伝えたくて、短歌を詠むようになった。そう、短歌を詠むようになった。思い返すとそのきっかけもやっぱりポストだった。ある日ポストに眼鏡と一緒に短歌が入っていたことがきっかけだった。冬について詠まれたその短歌を、私は部屋に貼り付けた。それからというもの、喉が渇くと水の短歌が、寂しくなると星の短歌が、寝れない夜には海の短歌が届いた。だから私も、貰った眼鏡で獲得したあらゆるを、短歌にしてみせた。短歌を見せ合うことは裸体を晒すことで、互いの短歌を読むことは性行為だった。ここはそういう星らしい。

最近は花や光や風の短歌が届く。春が近い。

そんなあっという間の越冬。

f:id:hachi_wimps:20240304164759j:image