お世話になっている先生の“インクルーシブ哲学”というnoteを読み、インクルーシブな対話ができないかと考えた。
インクルーシブ哲学へ②:インクルージョンとは何か?|清水将吾@哲学者 Shogo Shimizu, PhD
まず初めにやりたいのは「非言語の対話」だ。
最近このことばかりを考えている。
身体表現で対話はできないだろうか。
「非言語の対話」なんて矛盾していると言われるかな。
しかしわたしはコトバ以外にも対話性を見出しているので、矛盾しないと今は思っている。
その対話性とは例えば、「ここにいても良い」と思える安心感だったり、自分が自分としてバイアスもかからず受け入れられていく感じだったりする。
いずれにせよ、非言語の対話を実現していくならば、私が対話に見ている対話性や居場所感を、もっとちゃんと言語化しなくてはと思っている。
そこに鍵があると思っている。
ある授業後、身体表現での対話をしたいといいながら対話についてのアレコレを話しているうちに、「対話って応え合いだね」という話になった。
「むしろ“答え合い”だと安心しないよね」とか「“応える”ことで人は生き生きし始める」と言っていた。
「被災した人々がイチから街を立て直すときすごくいい対話が起きる」とも言っていた。
それはそこに“答えがないから”である。
発言に優劣が付かないとき、人は話せるようになる。
その人は「あそび」が専門であることもあり、“あそび”の答えのなさや、答えがないからワクワクして他者との関わりにつながることを話してくれた。
さらに、
「そういう答えのない関わり合いのものって“Play”という動詞を使うんだよね。あそびも音楽もスポーツもダンスもそうでしょ?答えはないけど応えはありうる。むしろ答えがないから応え合える。だからこれらで対話できるんじゃないかなあ」
と言っていた。
ボロボロと耳から鱗が出てきそうだった。
なにか大事なものが見えたような見えていないような。
見えたけどモヤモヤしていてまだよくわからずにいるような。
ただひとつ言えるのは“答えのなさ”が絶対に重要だということ。
答えがないから私たちは対等になれる。
ありのままで存在できる。
インクルーシブ哲学を考えるときに言われていた「“無限”に向かう」という感覚。
「哲学」という限りなく深くて大きい海に潜る時、私たちは対等になる。
哲学対話では「哲学」という「無限」に向かうが、非言語の対話では何という「無限」に向かえうるのだろう?
つづく