2023/10/18 19:00
内定者懇親会が意外と予想通り終わった。
“外見”と“4月から同じ企業で働くこと”以外の情報を持ち合わせない人と出会う。
もちろん私もそれ以上の情報を渡さないままそこに居た。
15人が集まったその場は空気が天秤のようにぐらぐらと不安定で、居心地が悪くて仕方ない。
他人にも知人にもなれない私たちは、何とか知人になるべく知り合おうとする。
「わからない」ことは怖い。
恒例の自己紹介の時間がやってきて、皆それぞれ自分を構成する要素を話し始める。
「サッカーやってます」
「韓国アイドルが好きです」
「音楽をよく聴きます!」
「社会人になったらトップの業績を残したい」
「𓏸𓏸大学から来ました」
ひとつまたひとつと、その人にバイアスがかかり始める。
「アウトドアな方だと思います」
「大阪から来ました」
またバイアスがかかる。同時にその場の空気も安定していくのを感じる。
あぁあなたそのものには全然辿り着けない、と思う。
わかった気になれるのは「サッカーをやっている人」とか「大阪の人」とか「𓏸𓏸大学の人」が、何となくこういうタイプの人間だというのを知ってるからというだけで、その人には到底辿りつけない。
しかし不思議とバイアスがかかった人とはスルスル話せる。
「その人と話す」とはどういうことだろう。
哲学対話でもよく初対面の人と出会う。どこから来たのかも年齢も性別も所属も過去も何もかも知らない人と出会う。
でも対話はその人の部活も趣味も仕事も聞かない。
そこにあるのは共通の問いだけだ。そしてみんなその問いを対話で考えたいらしい、となんとなく思えるだけだ。
それでも対話はできる。むしろその方が対話ができる。
なぜだろうか。
懇親会ではバイアスがかからないとぎこちなくしか話せないのに、どうして対話だと話せるのだろうか。
問いの元に集うとはどういうことなのだろうか?
特に講義の一環で哲学対話をする時、はじめに学年と学部を聞いてくる人が多い。
私はもう4年になってしまったので「4年です」と答えると、「あっ4年生なんですね!」と急に敬語になる。
対話の発言の重みにも差が出ていく。
「さすが4年生ですね!全然そんなふうに考えたことありませんでした。」
そう言われて、これは私が4年生だから考えたことなのか分からなくなる。
そして、あなたは「私」と話しているのか「4年生」と話しているのかも分からなくなる。
よく、be動詞はS=Cの時に使うと教わる。
つまり「私」=「4年生」だし、「あなた」=「サッカープレイヤー」ということだ。
確かにそうだが、ほんとにそうだろうか?
ほんとうにそんなにわかりやすいのだろうか?
わかりやすいというのはありがたい。
わかりやすい形に整えたものを見て、わかったフリができる。
大抵の場合はそれで困ることもない。「わからない」ことが怖い私たちは安心さえする。
その「わかりやすい形に整えたもの」を世の中は「前提」と呼んだりする。
対話をしていると私たちは、「いい社会にしたい」とか「犯罪はいけない」とか、まあ大体同じような意見を言っていることに気がつく。
だからこそ問いたいのは「前提」だ。
あなたの「前提」を知りたい。
その言葉をどう言う意図で発しているのか、その前提をみんなで共有して、照らし合わせたい。
すると同じだと思っていた意見がボロボロと姿を変え、全く違う意見だったことに気付く。
ようやく、私たちが異なる意志を持った個人だという事実に出会う。
「人それぞれ」から対話が始まる。
2023/10/24 21:00
誘われて対話のための対話に行く。
私にとっての対話について考える。
「みんなが対話に関して考えていることを教えて」と言われたので、その通りに思考を捗らせると、私はみんなの居場所づくりのために対話を開いているなぁとぼんやり思った。
居場所づくり。
この社会に居場所がない人って誰だろう。
なんで居場所がないって感じるんだろう。
なんで対話が居場所になるんだろう。
対話で居場所づくりがしたいなら、対話でなくても、つまり言葉ではない方法でもできるのではないか。
対話が居場所になると考えている理由はいろいろある。
ひとつ重要なものとして、自分の話を聞いてくれるというのが挙げられる。
この社会に自分の話を聞いてくれる場は少ない。
そして特に社会で話しにくいとされていることを話せる場ならなおさら居場所だと感じられるように思う。
以前学校の授業でジェンダーをテーマに哲学対話が開かれた。
当時、同性婚やトイレ・銭湯などの問題からくるトランスヘイトが話題でTwitter上は見ていられないほどに差別であふれていた。
だから私はかなり怯えながら対話に臨んだ。
しかし同時に「差別してしまう」という言葉にもちゃんと向き合う覚悟を持って臨んだ。
その気持ちがわからなくてたまらなかったから知りたかったのだ。
しかし結果的に対話は破綻した。
みんなから吐かれる差別を匂わせる言葉を私は受け入れられなかった。
差別が吐かれるたびに「いや、それは違くてね、こういう人たちがいるんだよ。」と自分の持っている知識でその場を正したくなる。
しかしそのたびに「哲学対話は正しさを疑うものだし、これを正しいと押し付けてよいのか…?この発言にもう一度ちゃんと真摯に向き合う必要があるのではないか」と思い直す。
知識がなくてもできるのが哲学対話なのに、と困惑した。
結局私は何も言えないまま対話は終わった。
私はあの場でどのように「差別してしまう」と言われたらちゃんと話を聞く気になれたのだろうか。
まずひとつ、自身の特権に対して無自覚なままマイノリティについて語られる言葉に問題意識を持つべきだ。
自分が誰かを傷つけていないかという恐怖も無く吐かれる言葉に重みは少ない。
差別などのテーマの時は尚更、自身の加害性に対して敏感になるべきなのではないだろうか。
そして私はそこに、「対話が居場所になる」という“対話性”を見ているように思った。
つまり、“自身の加害性を吐露できる場”にいる時、人はそこが自分の居場所だと感じることができるのではないだろうか?ということだ。
もちろんすべての対話がそうであるわけではない。
しかし居場所としての対話を考える時、普通なら瞬時に否定されることも受け入れられる場を作らなければ居場所にはならず、意味がない。
そのために「なにを言っても良い」というルールが立てられることも少なくないが、
なぜそれをわざわざいう必要があるのか、そして本当に何を言っても良いのか、ということは十分に考える必要がある。
ある人が「知識が必要な対話は難しい」と言っていたことを思い出す。
その人が「哲学対話は人と場所を選ばない」と言っていたことも思い出す。
たしかに知識が必要な対話があることを、最近は実感させられる。
そしてそういう場所に限って対話が足りていないことも痛感している。
この困難さはきっと簡単にはほどけない。