セツナレンサ

対話のあるせいかつ

ダイアログ日記#1

2023/10/13 21:00

「男性による家事・育児・ケア」をテーマに哲学対話をする。

その場には同じ大学の生徒と教師15人ほどがいた。

私はフェミニズムに関心があり、対話中は共感したり傷ついたりしながら、日々考えていることと照らし合わせつついろいろなことを思った。

 

家事・育児といった、家庭環境に足を踏み入れる対話は慎重になる。

その点で今回の対話は同大学の生徒とその教師というある程度の安全性が保たれた場であったため、すこし気楽で、貴重だった。

皆の家庭観や育児に関する話は、矛盾ばかりで、ゆえにとてもリアルで、地に足のついたものばかりだと感じた。

 

特に印象的だったのは「子供欲しいと思う?」という巷でよく聞く話題に対する反応だ。

そこにいるほとんどの人が「ほしいと思わない、現実的ではない」と答えたことに私は愕然とした。

かく言う私も「欲しいけど、かなり厳しい気がする」という意見だ。それはやはり金銭的なことや、希望の持てない社会問題や環境問題といったような、漠然とした社会不安が原因だと思う。

 

でもあまりにも悲しい。

このリアルを、政府は知ってくれているのだろうか。

「子供が欲しい」と思うことに罪悪感を抱かなければいけないなんて最悪だ。

人権の侵害とすら言える。

 

私は女性の人権や、男性の育児参加、ジェンダーマイノリティの文脈で話をするとき、「自由に選択できる社会であるべき」とよく思う。

働きたい女性、体調等が理由で働きにくい男性、子どもを設けたい家庭、いらない家庭。私たちは様々な意思を持ち、それを実行する権利のある人間だ。

 

今回の対話でも「でもやっぱり育児は女性の方が向いているのでは?」という意見がでた。しかし向いているかどうかではなく、大切なのは本人の意思だと、私は痛いほど思う。

属性で向き不向きを評価され、個人の行動を制限されることはあってはならない。多様性を認める社会はその先にはないのではないか。

だからこそ、父親が育児をしたいと思っていても育休制度が整っていなかったり、女性の出世が見込めなかったり、という理由でその選択ができないことが問題なのだと思う。「子供が欲しい」と思うのに、社会のせいで「むずかしいかも」と思ってしまうことが問題なのだと思う。

 

その後も対話は進み、「個人の意思を尊重できる社会とはなにか」を模索し始める。

具体例が出されるたびに、こぼれ落ちてしまう人達のことを思う。

地方で教育にアクセスしにくい人、雇用の機会が少ない人、同性愛者等。

 

さらにその対話の場にいる人たちの中でもそれぞれ異なる意思を持っていることにも気付く。

同時に「個人の意思を尊重できる社会」の実現の困難さにも気付く。

「人それぞれ」と「他人に迷惑をかけなければ」という言葉の難解さにも気付く。

特に対話でよく出会うこの言葉たち、対峙するたびにわからなくなる。

「人それぞれ」だからこそ、これからも「人それぞれ」から対話がしたい。

 

2023/10/14 13:00

自分の哲学カフェの次回のテーマを、「精神疾患」に決めた。

対話に出会ったとき、ちょうど精神疾患を患っていた私はカウンセリングという発話体験をしていた。自分でもわけのわからない苦しみが、言葉にしていくとひとつひとつほどけてわかっていく経験をする。私の自堕落が評価されることなくただの事実として受け入れられていく経験もする。

 

私の疾患は依存症に属するものだったため、いわゆる中動態の状態にしばしば苦しんだ。

やりたくないのにやってしまうことは苦しい。

ほんとはやりたくてやってるんじゃないの?と思われることも苦しい。

私の意志とそれに従う身体はどこに行ってしまったのだろう、と悩む。

 

生きていく限り私が私であることから逃れられない。

このことは嬉しかったり苦しかったりする。

未だに自分がどこかに行ってしまう日もあれば、自分が自分であることが苦しい日もある。もちろんうれしい日もある。

 

私は精神疾患を患っていたことを隠していない。

それは隠すことの方がつらいという自分勝手な理由だが、オープンにしているとたまに相談を受けることがある。精神疾患を患うということはよくあることだ。家族や親せき、大事な人がなることもよくある。

それなのに話せる場は少ない。

芸人の深夜ラジオが好きでよく聞くのだが、40を過ぎた芸人の飲みの場はもっぱら禁煙や健康の話だよく言っている。

カラダの健康のことはよく話されるのに、ココロの健康のことは話されない。

 

タブー視はどこから来るのだろう。「話しにくい」ことはこの世の中にはたくさんある。

性のこと、宗教のこと、社会運動のこと、家族のこと、自分の加害性のこと、どれも生きていく上で大切で、心と体のバランスに大きく関わる。

 

話しにくいけど話したい事を話せる対話の場とはなんだろうか。

DVの加害者が安心してその場に存在できる場とはどのような場だろうか。

「評価せず受け入れる」なんてできるのだろうか。

精神疾患」をテーマに対話すること、怖くてたまらないけど、対話が足りてない場所に対話を開きたいからやってみよう。

 

2023/10/17 12:20

哲学対話における”問いの役割・重要性”について考える。

 

教育学部の講義。

ワークで「そこにいる全員に開かれた問いを考えてみてください。」と言われる。

ばらばらな人達が集まり、そこにいる誰も置いていかないような共通の問いを作るというワークだ。

 

教育学部のコマなので、校則、教科教育、教師の在り方、学校以外の場など、教育に即したテーマをひとりひとり抱えるように促される。その後3,4人くらいの班にまとまる。

私の周りに集まった生徒も皆異なるテーマを抱えてやってきた。

私はインクルーシブ教育、もう一人は学校と校則、もう一人は教育格差だった。

 

そんな3人の共通の問いとはなにか。

 

それぞれのテーマへの思いを聞いているうちに「みんなが存在しやすい教育現場だといいよね」という話になったのだが、“みんなが存在しやすい教育現場とはなにか?”という問いは、考えるにはあまりにも抽象的だ。

その問いを目の前にした私たちはただウロウロと問いの周りを歩き回ることしかできない。

 

そこでこの問いを軸に、いくつかの補助となる問いを出そうと試みた。

ワークが「問いを作ろう」だったため私たちは問いばかりだした。

“行き過ぎたルールとはなにか?”、“みんなと違うのが恥ずかしいのはなぜか?”、“ルールがない集団は崩壊するか?”、“行きたいと思う学校とはなにか?”、“通わせたい学校とはなにか?”。

 

時間切れになり振り返りの時間として何人かが感想を言うように指名される。

私はそれをぼんやりと聞きながら、自分のグループの話し合いを振り返る。

問いばかりの対話は密度が低くパッとしない。みんながその問いに至った経緯がわかりそうでわからない。その「分かりそうでわからない」感覚はとても息苦しい。

対話ばかりが先に進み、私は取り残されたままという感覚もあった。

 

問いは対話を進める。

その場にいる人を刺激し思考や発想力を促していく。

対話の骨とも思える。

そこに私たちの経験や価値観などの、問いの背景を肉付けしていくことで、私は「満足感」を得る。

対話の「満足感」とはなんだ、そんなもの必要なのかとも思うが、満足感のある対話は「よくわかる」という経験が多い対話のようにも思う。だから骨ばかりの今回の話し合いはスカスカな感じがしたのかもしれない。

 

逆に、肉ばかりの対話も苦しい。

同じ場所にとどまり続けぶくぶくと太っていく場で身動きが取れなくなることはよくある。

そんなときはきっと問いの出番だ。問いは私たちを別の場所へと連れて行ってくれる。

まだ更地だった場所にスカスカながらも骨組みを立て、その場を経験や実感などの肉付けによって充実させるように促す。十分に肉付けされると私たちは満足し、またすこしずれた場所に問いを立てる。

 

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