セツナレンサ

対話のあるせいかつ

“ジューシーでサクサク”だとなんで美味しいんですかね?

 

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大学が “陽キャ大学” と揶揄される大学なので毎回「全員打ちのめしてやる」とひどく暴力的な気持ちになりながら登校している。

途中通る駅は、人に譲っていると前に進めないどころか、入口にどんどん戻ってしまうほど大量に人が流れている駅なので毎回「全員打ちのめしてやる」とひどく暴力的な気持ちで歩いている。

ちなみに毎回負けて帰る、耐え難い頭痛と一緒に。

目には目を歯には歯を、暴力には暴力を。武装しなければ私は大学に行けない。

世の中は酷く暴力的なことに溢れていると感じる。私の大学のどこが暴力的なのだと、同大学生に言われそうだが、私から見ると酷く暴力的なのだ。

過剰な集団行動や、見に纏われているブランドもの、アカデミックな大学を実現しようとする者への嘲笑

暴力とはなにかよく考えるが、最近は「自身を安全な地位に置いたまま他者を排除、嘲笑すること」が暴力ではなくて、何を暴力と呼ぶのだろうと感じている。

そうはいっても、このように自己の特権に甘え他者を排除する態度を、私自身もしていることはあるだろう。最初に「暴力的な大学」を表現するために“陽キャ大学”を取り出したことも、陽キャとかいうものへの、またはそもそもそういった概念を嫌う者への暴力だ。

私たちは特権に無自覚なことがよくある。

世界は優しいのだろうか。

特に、特権がない世界は優しいのだろうか。

優しいとしたらどこが優しいのだろう。

世界がトゲトゲして見えるのは私が20代前半だからだと、若いからだと、よく社会に教えられる。あとは40代が書くエッセイとかに教えられる。

ひょっとして、私の大学も優しいのだろうか。

もし心からそう感じる日が来たら、「優しさには優しさ」をの精神で楽に登校できそう。

「全員打ちのめしてやる」ともう思いたくない。

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2

「とんかつが好きです」「なんで好きなんですか」「“ジューシーでサクサク”だから好きです」「なんで“ジューシーでサクサク”だと好きなんですか」

教授が質問ゲーム*を受講者に説明するべく、1人3役で「好きな食べ物」についての質問ゲームをしている。

(*哲学対話の前のアイスブレイクでよく行われるゲーム。お題(例:好きな食べ物は?)に対する答え(例:とんかつ)を1人が出し、その答えに対し全員で質問(例:なぜ好きなの?どこのお店のとんかつがすき?等…)していくゲーム。)

とんかつの感じが口の中に広がりお腹が空く。

とんかつの感じとは“ジューシーでサクサク”な感じ。

「“ジューシーでサクサク”だとなんで美味しいんですかね?」

と教授はこちら側に思考を促してくる。

自分で自分に質問していて分からなくなってしまったようだった。

教授が“ジューシーでサクサク”と連呼するので、私の口ではその度に「サクッ、ジュワァー」ととんかつが噛みちぎられは油が滲み出て、甘くて香ばしいアレが広がる。

どうして“ジューシーでサクサク”が美味しいのか、考えるために想像すればするほど、アレが広がって「ああお腹すいた、とんかつ食べたい」で頭が埋め尽くされてたまらない。

「食感の違いって僕達結構求めますよね、“ポテトサラダのきゅうり”とかさ」

新たな例を出してきた。

「ポテトサラダのきゅうり」を想像すると、なめらかな中に突然「パリッ」っという食感が現れる。

あんなに薄くされてしまったのに「パリッ」っとなる。

その「パリッ」が無ければなんて退屈な食べ物だろうとか思う。ポテトサラダを食べていながら、噛んだ気もしないまま、上の歯と下の歯がだらしなくくっつくのは嫌だ。

「パリッ」があるから私たちはあのなめらかを飽きずに食べられる。酒のつまみにできる。

きゅうりはほとんどが水分だとどこかで聞いたことがある。栄養価がほとんど無いらしい。それを聞いてしばらくきゅうりを食べなかった時期があったなぁ。

過去の私へ、きゅうりには屈強な食感があるよ。

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3

いまどきデモは嫌厭されるだろうか。

私はデモに行く。

このブログにも書いたことのある反戦デモでは、名が知れた人びとが「戦争という過ちはもう二度と繰り返してはいけない」「こんな理不尽なことが許されていいわけがない」と強く、確信したように、言葉を並べていた。

その場には、戦争が嫌でわざわざ来てしまった人、新宿駅のど真ん中で抗議の意を込め爆音で演奏する人、日々に夢中で足早に横切る人、顔をしかめながら耳をふさぐ人、ワラワラと笑いながら写真を撮る人、さまざまいる。

「正しさ」はどこにあるのか。

著名人たちはなぜ、確信したように「戦争はダメだ」と強く発言できるのか。

私も自分の主張が正しいのか不安になるときがある。

デモの写真は「迷惑だ」という内容とともに投稿され、瞬く間に拡散される。そしてTwitter上で大きく共感を呼ぶ。「うるせぇ、迷惑なのわかんねぇのか。」に2万いいね。

「正しさ」はどこにあるのか。

 

このままの生活が良い、と思えることはとても幸福だ。幸福どころか特権だ。

例えば、手足がちぎれたり、眼球が溶けたり、あなた以外の全員が違う言語で話してたり、またはあなただけがゾウの顔になってたりしたら、どうだろう。

きっとあなたは世界から排除される。

「普通」から外れたあなたは、今の日本じゃ邪魔者扱いされる。そして気付く。今まで自分が纏っていた特権に気付く。

そうなったとき、私はたぶん自分の人権諦められない。

だからデモに行く。

手足を失っても、目が見えなくても、顔や仕草が日本人らしくなくても、不当な扱いを受け人権を侵害されるのは嫌だ。

だからデモに行く。

それでもやっぱりデモは怖い。批判されるし、その批判はむかしの私が抱いていたものだったりする。だからか、デモに来る人は怖いイメージがまだある。

でもやっぱり、みんなで人権を取り戻したい