セツナレンサ

対話のあるせいかつ

日記は読み返すから息をする?

 

水曜日

「ただ生きてるだけ日記」を復活させようと急に思い立って書いている。

対話に関する記事のほうが多くなっているこのブログ、今見たら副題が「ただ生きてるだけ日記」だった。

書き始めたきっかけは確か、コロナで持て余した暇にどうにか生産性を持たせることだった気がする。

それから一年以上経って公開している記事は数個、形をとどめていない下書きが無数。なんとなくここで日記を書いても公開できず、インスタにだらだらと書いていたりもした。

 

文章は生ものなのか、朝起きたときには急に死んでしまった金魚みたいに、動かなくなって浮いていることがよくある。左手で書いたような不器用な私の文章は、体調次第では全く読めたもんじゃない。

でも、翌朝死んでいるように見えても、もしかしたら日記は読み返すときはじめて息をするのかもしれないなあ、とも思う。

 

 

昨日バイト先のJK(ほんとうはもう大学1年生だけど、私のなかでJKのイメージがあまりにも抜けないので”通称JK”)が、彼氏の愚痴を言っていた。

どうやらずっと前から約束していたのにも関わらず、当日になって「親が最近夜遅いのを怒って20時までには帰らないといけない」と言ってきたらしい。

それに対してJKは、ずっと楽しみにしてたのにその予定をぶらされるのが嫌らしかった。

 

そんな彼女を健康的だなと思う。

私にも似たような経験はあって、あまりにも心が乏しいが、そうされたことにひどく落ち込んで同じように怒りを覚えた気がする。でもそのすぐあと、そんな感情をもつ自分を恥ずかしく思い、人になんて言えないと思った。

当然相手にも「全然いいよ!」とツルツル画面をなぞって、送信した。

 

負の感情を持った時に、それを外に出せる人はとても健康的だと思う。そして確かに怒っているJKをかわいいなと思う。彼女は自分の心を守れていて偉い。

 

私の自分をせめるくせはいつ生まれたんだろう。なにか明確なきっかけがあったように思う。人を責めるより自分を責めたほうが楽だと思ってしまったきっかけ。

この癖はいつになったら抜けるの?

自分の心を守るとは何で、人を許せないとはどういうことなのだろうか?

 

『90分でわかるサルトル』を読み終わる。一週間かかった。

 

金曜日

ハッとしたその瞬間、5時を知らせる「ゆうやけこやけ」が今日も私の街を包んだ。

この時いつも「もうこんな時間か」と思う。そして少し焦る。子どもたちはこれを合図に家に帰り、私はバイトの時間だと焦ってみたり、読んでいた本をやめたり、ふと暗くなりすぎている部屋に気付いたり、まだ帰らない同居人に意識がいったり、昼寝から覚めたりする。

このチャイムがなかったら世界はなにかかわるのだろうか?

 

時間に支配されていると感じることはあまりない。でも私は5時のチャイムに焦る。

時間の経過なんてものは無意識に起こっているが、5時のチャイムはそれを意識的にさせる。

テスト終了3分前、ザクザクと秒針が私に時間経過を刻むように、今日も「ゆうやけこやけ」は”時間が過ぎた”と私に教えてくれる。

今日が終わる、今日を終わらせなければ、無事「今日」という作品のエンドロールが流れるように、エンディングを暮らさなければ、うまくできるだろうか。

 

堀川修平著『気付く立ち上がる育てる』を読む。

 

日曜日

ジェンダー平等について、ずっと考えている。

この世には固定概念であったり、社会規範であったりというものが存在していて、それを良く知っていると”育ちがいい”と言われたり、”気が利くね”と言われたりもする。

 

カップルが来店し「ご来店ありがとうございます!」とおしぼりを渡すとき、「おまたせしました!」とドリンクを渡すとき、わたしは必ず女性から渡す。

これはジェンダー平等の立場から考えるとどうなのだろうと考えこんでしまった。

 

ジェンダー平等とは、女性の地位をあげるための概念ではなく、あらゆる性において平等にという概念だ。

女性の地位だけ上げようとする行為は差別と変わりない。

 

人は差別をするとき、実は悪意がないなんてことは多くあるらしい。

私はマイノリティへまなざしをむけ、差別を生んでいる社会や加害者に怒り、あまりの途方もなさに泣くことすらあるが、そんな私が女性を優先しておしぼりを渡し、ドリンクを渡していた。

 

「ほら男らしく飲め飲め!!」と威勢よく、席の端から端へと言葉が飛ぶ。

なぜ飲みっぷりがいいと男らしいのか?

なぜ弱音を吐くことが男らしくないのか?

 

「この後もう一軒行きましょうよう」とズルっと肩を出して手を握り誘うお姉さん、「ほらここまでサービスしてくれてるんだからお前もくるだろ!!」と周りの熱も高まる。

なぜ女が手を握ることがサービスなのか?

なぜこの人を異性愛者だと決めつけているのか?

 

この人達は差別をするつもりなんて微塵もないだろうが、私の目と耳には鮮烈に焼き付き、こんなにも意識を変えていかなければいけない人がゴロゴロいるのかと、絶望する。

が、私も女性を優先しておしぼりを渡す。

 

また来店を知らせる鈴が鳴って席に案内する。

「ご来店ありがとうございます!」と先に座った男性におしぼりを手渡す。

 

「どうしたらジェンダー平等は実現されるのか?」

という最近の私の大きな問いのひとつの答え、すこしの反抗。でも差別を生む固定概念はこうやって少しずつ壊していくべきだと、大真面目に思っている。

 

『こどものための哲学対話』を読む。