セツナレンサ

対話のあるせいかつ

抵抗はしません、流されるままです

“好きとはなにか?”をやたら話した4月
哲学対話を開いて「何について話したい?」と聞くとだいたいこの問いが出てくる。
“自分ってだれ?”、“善悪の境目はどこ?”、“幽霊は本当にいる?”、と魅力的な問いのラインナップを押しのけ、今日も“好きとはなにか?”が多数決で勝利する。
そしてみんなきまって恋愛の話をしだす。口裏を合わせてたように恋愛の話しかしない。


───「好きかもって思うともう自ら川に飛び込むんですよ、好きになりに行くんです、抵抗はしません、流されるままです。」
──『え、どういうこと?、好きって意識的になれるものなの?』
───「いや、意識的というより…、うーんなんだろうな、僕はもう好きってなったら盲目になろうが構わないって感じですかね」
──『なるほどね~、でもその盲目感を自分で気付いちゃうと、冷めてるんじゃないかって不安になるんだよなぁ』


私には好きな人をちゃんと好きか不安で、どこか安心したいように見える。この気持ちは嘘じゃないはず、と自分を諭した経験がみんなはあるのだろうか。
でも「ほんとに好き?」と疑うのは私も同じだ、今みたいに「ちゃんと好き」なんて言葉を使ってしまう。
「ちゃんと好き」ってなんだよ!「ちゃんとじゃなく好き」なんてことがあるのか?

 


哲学の授業を思い出す。早口の先生によって私の脳みそにバシバシと情報が書き殴られていく。
感性の話をしているとき、
「“これは薔薇だけどよく見たら薔薇じゃなかった” ということは有り得るけど、“この薔薇は美しいと思っていたけどよく考えたら思っていなかった” は有り得ない」

と説明される。どうやら
自分が感じたことは揺るぐことのない事実
ということらしい。
ほんとうに、てんでちんぷんかんぷん×3 である。


でもふと思う、
自分が感じたことは揺るぐことのない事実
なのであれば、
好きだと感じたとき、それは揺るぎない事実なのでは?

 

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好きって感情なのかな?
と1人が言った問いで、目が覚めたように対話に意識が引き戻される。


───『感情がなにかわかんないけど、胸がグッとなったり、深呼吸したくなったりはしない?』
──「なる、感情って意識じゃどうしようもない領域な気がして、胸が苦しくなると“ほんとに好きなんだ”って思えるかも」


たしかに、と思いながら聞き続け、私は好きだと言えるものがいくつあるだろう?、と考え始める。胸が苦しくなるほど好きなもの、いくつあるだろう。
でも別に胸は苦しくならないけどラーメンは好きだなと、とか、友達のこと胸が苦しくなるほど好きなのキモイな、とか、しょーもないことも考える。


時間が来ると対話は終わる。
まだ考えたいのに!、の声も無視して、終わりです~お疲れ様でした~、と深くまで潜ったみんなを陸に引っ張りあげ、それぞれが帰って行くのをみる。

この人たちは今から好きな人にLINEしたりするのだろうか、やっぱ私あの人のこと好き!って思ったんだろうか、と余計なことを考えて、私もやっぱり音楽好きだわ~とか思いながら、好きな人にLINEを送って帰路に着く。