セツナレンサ

対話のあるせいかつ

平和を見たことがない

平和ってなんだ?

友達とアホ笑いをしていても“平和だな”と私は実感しない。

貧困や人種差別の諸問題、戦時中は特にその事実がベッタリと脳裏について取れない。

笑っていてもどこか影を落とすということではないが、どんなに爆笑していても、幸福でも、「いま平和?」と聞かれて私が頷くことは無い。

私は平和を見たことがない。

 

f:id:hachi_wimps:20230524030534j:image

 

「平和にする」というテーマで対話は進む。

平和にするにはどうするべきなんだろうと、頭のいい人たちと考えるが絶望するばかり。

 


1人が受け取った鳥のぬいぐるみを見つめている。

鳥のぬいぐるみを持っている人が発言できるルールだ。

彼はまぶたを痙攣させながら3回マバタキをし、吸う息も吐く息も震わせながら、ポツポツと言葉を落とす。

「あの、、さっきから聞いていて、分からなくて………どうしてそんなに平和を望むんでしょうか、、いや、僕も平和を望んでいて、でもなんでか分からなくて………」

 


1文字1文字落とされていくその言葉に、その場にいる全員が息を呑む。

私はぐるぐる回していた脳みそが急に無くなったように真っ白になって、眼球の奥がぐっとなり焦点が合わず、ただただ胸の重さだけを感じた。

れいさんは「あ、えっ、、あぁ、うん」と声をこぼして、すぐに「タシカニナンデダロウ」と口に変な力を入れながらなんとか言葉にしていた。目もあっちこっち向いている。

 


戸惑うのもそのはずで、平和という大きくて抽象的なものが、自分の手のひらに落ちた瞬間、何が何だか分からなくなる。

それなのにみんな「平和を祈ります!」などと大真面目な顔をして言ってる。

私の手のひらにおさまるほどの平和とはなんだろう。

私ができる「平和にする」ことはなにか。

 

f:id:hachi_wimps:20230524030758j:image

 

私は対話に理想を描いてきた。

対話による平和を大真面目に望んでいる。

対話は優しい。

悩むことを認めてくれるし、考えることが許される、当たり前なんて無いと分かり楽になる、人に言えないようなこともみんな1度は吸収してくれる、弱いものでも声を出せる。

 


なんてことを皆で共有していると、大きな目をカッと開いたれいさんが急に、そして淡々と、呼吸も乱すことなく、「本当に対話は武力行使よりも良いの?」と言う。

その瞬間、私の時間がだけが止まった感触を得る。

「戦争は力があるものが常に勝ってしまうけど、対話も発言が上手い人が常に勝ってしまわない?声を出せない人はどうする?耳が聞こえない人はどうする?考えるのが苦手な人がダメな人になる?」

 


対角線上から言葉は床に投げられ、バスケットボールのようにワンバウンドして、私の胸にどうしようもなく刺さる。

私は上手く息が出来なくなって、ああまただ、と思う。

「対話はいいもの」という自信がみるみるうちにしなしなにしおれていく。

そんなわけがないと必死に言葉にすればするほど、耳に届く時にはもう嘘にきこえて苦しい。

対話は素晴らしいと思っていた私はなんなんだ?

対話で優位に立てるから気持ちよかっただけなのか?

それだけはお願いだからやめて、1番思いたくないのにと、目の奥が絞られて涙が滲む。

 


でもやっぱり違う、

優位に立ちたくて対話をやっているわけじゃない。

対話は素晴らしいことを思い出す。何度も思い出す。

対話は「話す営み」ではなく「きく営み」ということ

だからこそ「他の意見への受容」が産まれること、

そこには「思いやり」が溢れていること。

 

f:id:hachi_wimps:20230524031237j:image

 

最後に今回の取材の撮影者が話してくれた。

その人は会った瞬間から、刹那感に目を見張るものがあり、故に存在を強く意識するような、そんな印象的な人だった。

足の裏とお尻をコンクリートの床につけて座っている。腕は身体を覆うように畳まれ、目をぼんやりさせながら息するように言葉が吐かれていく。

 

「私はね、平和を見たことがなくて、そんなもの存在しないと思っているの。でもね、ある時気付いたの。それはね、自分の幸せや思いやりを誰かに向けて、その誰かもまた他の人へ幸せや思いやりを届けて。そうやって内側から波紋のように広げていけばいいんだなぁって。その連鎖が私が死んで100年後200年後に地球の裏側まで届いてたらいいんじゃないかなぁって」

 

ちがう世界の人のような、澄んでいて、温もりのある声だった。


私は瞬きをするのも忘れて産まれていく言葉を見た。

そしてなんて手のひらにおさまる平和だろうと感動する。

対話を続けて、対話で起こる「受容」と「思いやり」を、少しずつ広げることならできるかもしれない。

私が死んで100年後200年後、この優しい対話の場が世界の隅々まで行き渡っていたらなんて素晴らしいんだろうと、また理想を描く。