セツナレンサ

対話のあるせいかつ

インクルーシブ対話「非言語の対話」3

新井英夫さんというダンスアーティストを紹介してもらう。

身体表現を通して他者と関わり合ってきた方だ。

これまで数多くの身体を使ったワークショップを開催している。

それは障害あるなしに限らず、まさにインクルーシブな方法で行われる。

新井さん自身、現在ALSを患っている。

 

ここではYouTubeに公開されている、2023年7月に行われた「祝福へ・天と地の和解」というワークショップについて書きたい。

体奏家 新井英夫と彫刻家 安藤榮作のパフォーマンス&ワークショップ「祝福へ・天と地の和解」(2023年7月17日)全編記録ロングバージョン - YouTube

参加者は150人ほどで木彫りの“人型”を用いたワークが実践されている。

興味深い部分は多々あるのだが、ワークショップの最後に注目しよう。

新井さんが詠む即興の詩に身を任せ、参加者が、“人型”を叩いたりこすったりしながら詩を表現していく。

ぽつ ポコポコ ゴンっ

どーん ぱらぱら すぅーー

バン バン! バン

いくつもの音が重なり、なにかが見えてくるような感じがする。

「川のながれ」「雨が降ってきた」「水が滴る」 詩を連想し、音を出す。

部屋が暗くなり、聴覚だけが取り残されたとき、本当に水の音が聞こえてくる。(動画1:00:00以降)

 

きっとひとりひとり描いている光景はばらばらだ。

150人の参加者は150通りの情景を描いているはず。

それなのにみんなおなじ景色を見ているのではないかと思える。

無秩序に秩序だっている。

そこでは描いている光景を咎められることはないし、出す音を咎められることもない。

ただそういうものとして捉えられる。

あなたの1音が全員の想像を構成する一員になっていく。

そこに、あなたのまま、存在できる。

 

少なくとも「私」だけではできなくて「私たち」だからできる。

私たち全員がその場に深く沈む、 インクルージョンされていく感覚。

「哲学」は無限だが、「表現」も無限だろうか?

 

“哲学する”ための対話は“考えるための手段”として捉えられることが多い。

だから言語化が鍵になる。思考と言葉は深く深く結びついている。

一方で“居場所作り”のための対話は“人と応え合うための手段”に思えてくる。

ここに「非言語の対話」の可能性が見えてくる。

 

“インクルーシブ哲学“で言われていた「インクルージョンされていく」感覚。

私も対話で関わり合い、表現という海に、全員で飲み込またいと願う。

対話の実践者が、対話の外側にいる人を対話の内側にインクルージョンするのではない。

私もあなたもまだ対話を知らない人も、みんなで「表現」という無限にインクルージョンされたい。

できるだろうか?

 

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