セツナレンサ

対話のあるせいかつ

インクルーシブ対話「非言語の対話」2

対話をしているとモヤモヤと胸を刺激する思考のカタマリみたいなものを経験する。

このカタマリは私の胸を詰まらせて苦しめてくる。

無理に言葉にしようとしても詰まる。

いざ言葉にできる!という段階になった時には、そのカタマリはさっきまでのカタマリではなく、それはそれは綺麗な形に整えられたものになっている。

言語化できる」というのは思考がかなり綺麗に成形されたあとの話なのだ。

しかしそうであるから、しばしば言語化のせいで失われたものや余分なものを感じることもある。

 

ある人が「やっぱり言語化は大切なんだよなあ」とつぶやいていた。

さわやかな秋晴れの日だったが、湿度が私を覆った。

なぜ言語化は大切なんだろう。

私たちは言語化でなにをしているのか。

すくなくとも言語化すると「わかる」ようになるなと思う。

モヤモヤだと「わからない」けど言葉にしたとき「わかる」ようになる。

 

ほんとうに「わかる」必要はあるのだろうか?

そもそもほんとうに「わかる」ことができているのだろうか?

 

たまーに対話をしていると支離滅裂な言葉が吐かれ続ける場面に出会う。

私は息を飲みながら目を丸くして吐かれていく文字を見る。

世界のわからなさを、彼女の思考のカオスを、未だ言語にならない思考のカタマリを、

そのまま音にしているかのようで息を飲んでしまう。

意味の通った言葉になっていなくとも私は共感する。

「わかる」ではなく「感じる」経験。

何が違うのか。そう大差ないのか。

「わからない」けど「感じる」こともある。

それはつまり「言葉にできない」けど「感じる」ことだろうか。

 

昔踊っていたころ、思春期独特の無限のエナジーを踊りで表現・発散していた。

言葉でなくとも私は自分の中に沸き起こる何かを表現することはできる。

むしろ言葉ではできないことが、非言語的な表現によって解放される。

そこには非言語の可能性が隠れている。

モヤモヤは言葉にできないけど、踊りや音にはできるかもしれない。

そしてそれを見た他者が「感じる」ことで応えうるかもしれない。

言語化が苦手な人も置いていかないインクルーシブ対話へ。

 

つづく

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