一向におさまらない。なんなら悪化している気すらする。最悪の気分だ。
パールハーバーの資料館で見たばくだんと同じようなものがきちんと並べられて仕舞われている。金属が擦れた音とともにとりだし、何かにセットして、どーんと打っている。次々と。そんな映像が昼のニュースで流れる。
寝れない夜、まぶたの裏に浮かぶのは戦争のこと。ウクライナのこと。散り散りになった人たちのこと。その人々の想いのこと。
どーんどーんと音が頭で響いてうるさい。
戦争はただただ愛が足りないと思っていたけど違かった。みんな愛で溢れている。溢れているのにそれが無慈悲に刈られる。届かない想い。
ロシア国内でも反発のデモは起こるが、参加者は次々と拘束される。愛で溢れた参加者をずるずると引きずり、叩き、打ちのめし、閉じ込める。痛くてたまらない。
布団を押しのけ寝返りをうつ。どーんどーんと音が止まない。つぶった目にへんにちからがはいる。
もしアメリカが戦争参入してたら。基地のある日本がまず襲われてたかしれない。そしたら親も兄弟も幼なじみも同級生もまずは男の子からそばには居なくなる。
言えないままのこの想いも、果たせていないあの約束も、絡まったままのあの人との関係も、傷付けたままの心も、全部取り返せないと思うと心がヒリヒリする。
どくどくどくと心臓の音が大きくなるのを感じる。
そういえば、先日新宿南口で行われた「No War 0305」の反戦デモに行った。ニュースにもなってたな。
行った理由を聞かれるが、なにも出来ない自分に打ちのめされなにか行動を起こそうとか、そんな立派な理由じゃない。
私はずっとNoWarにたどり着けない、少なくともNoWarと叫ぶことなど到底できないと思っていた。
実感はある、私たちはたしかに戦争の中に生きている、意識にべったり付いてぬぐえない戦時中という事実。嫌だ、戦争は嫌だ、多分すごく嫌だ。こうやって嫌だと思ったり、悲しいと感じたりはする。
それでもずっとデモに参加するひとをどこか冷ややかな目で見ていたし、大声で反戦を叫ぶ気にはなれなかった。
いつものようにスルスルとTwitterの画面をスクロールしていると同じ記事が何人かにRTされている。
このデモのステイトメントだ。すごく等身大の言葉が心に染み入ってくる。私の身の丈の低いNoWarの気持ちと同じ目線までしゃがみ、手をとり、うんうんと頷きながら、そうだね、そうだよね、いやだよね、でも声を上げていいか分からないよね、こわいよね、ぼくも同じだよ、みんなそうなのかもしれないと言ってくれた気がした。
当日そこにはたくさんの人がいたけど、みんなそれぞれが粒だってみえた。そしてそのそれぞれの想いが緩くくくられ束になっているみたいだった。
私は自分がなんのために来たのかも、何がしたかったのかも分からなかったけど、でもそこにいることを許された気がした。すこしだけ心地よかった。
「ほしいのは熱狂ではなくそれぞれの実感でたどり着いたNO WAR。」
熱狂的なデモには、きっと私の居場所はない。