セツナレンサ

対話のあるせいかつ

世界は、ひたすら、美しい。

住んでいる街に樹齢1000年の大きな大榧がある。

いくつもの木が寄り添ったようなおおきい大榧だ。

初冬の光で、年老いた葉が山吹色によく膨れている。

 

色んなことを思い出す。

クリーニング屋で貰えたペコちゃんキャンディとか、

学校を仮病で早退しすぎてた4年生とか、

一昨日元カノがヤク中で死んだとボヤく彼とか、

初めてRIDEのシューゲイズが響いた雨の日とか。

 

全てが昨日のことのように鮮明で、

引きずるものとして、いまも抱えている。

 

それらは、私に驚嘆と畏怖と懐疑と喪失をもたらし、

世界の美しさを語りかける。

 

どうしてだろう

私の手が世界の美しさに引っかかる寸前、

いつも世界は音を立てながら、私を絶望へと導く。

ガラガラと崩れ、ヒタヒタと美しさに浸かることは無い。

 

それなのに、私が絶望しているとき、世界は優しく光る。

そう。そういう世界に生きている。

 

今日は悲劇だった。

悲劇ってままならないことですかねえ、と

対話中に誰かが言っていたことを思い出す。

ままならない。

そもそも私は人生のすべてがままならないが、

今日は、もう、すべてを投げ出したほうがずっと楽だと思った。

 

それなのに、世界は、ひたすら、美しい。

 

大榧は、いつもの何倍も光を反射していて、

そのまわりを子どもが一輪車でぐるぐるとまわっている。

ピチピチと音が聞こえてくるほどに穏やかだった。

 

圧倒的で、普遍的で、美しい、なにか。

それは決して語りかけてはくれない。

私たちは勝手に救われるだけだ。

それなのに時折、それが耐えられない。

 

右耳のイヤホンを2回叩くと、

Patrick KriefのMishimaが流れた。

「最終回みたいな曲が好き」といつも言っていた君。

決して私たちのための曲ではない。

私たちが勝手に、悲劇に、美しく、してしまうだけなんだ。